深谷市の芍薬園と渋沢栄一の足跡の一端について

2021年5月12日(水)天気が良かったので、10時ごろに家を出て、関越道、練馬ICから花園ICへ、そこから道の駅により、かつて一度来たことのある芍薬園に、今回は時期がよく花が咲いていました。次に、渋沢栄一の関係のある場所に行きました。日本煉瓦製造(にほんれんがせいぞう、日本煉瓦製造株式会社)は、かつて存在した日本の煉瓦製造・販売会社である。本社を東京に置き、埼玉 ... これにより渋沢栄一らによって日本煉瓦製造が設立され同工場が埼玉県榛沢郡上敷免村( 後に大里郡大寄村上敷免を経て、現在の深谷市上敷免)に建設された。そこがレンガ史料館になっています。その付近に深谷駅と工場を結ぶ専用鉄道、福川線の旧福川橋梁がある。つぎに渋沢栄一の第一銀行の後輩が栄一に贈った建物が誠之堂と清風亭、元々は、世田谷区瀬田の第一銀行保養施設「清和園」の敷地内たてられていた。誠之堂が1916年。

清風亭が1926年に建設された。誠之堂の設計したのが田辺淳吉(辰野金吾の弟子)、施工は清水組、

清風亭の設計、西村好時は、辰野金吾の教え子であった。施工は清水組。この2つの建物は深谷市起会・大寄公民館内にあります。次に、渋沢栄一の生家(旧渋沢邸の中の家)深谷市血洗島247-1、諏訪神社、

そして、渋沢栄一記念館(深谷市下手計1204)へ、ここを見学して、栄一の妻千代は尾高火家の娘,母のやへは渋沢一族の渋沢宗安が分家して起こした「東の家ひがしんち」の血筋で、渋沢元助(渋沢栄一の父)の姉であった。故に従妹同士の結婚でした。その兄が尾高惇忠で、「尾高塾」で教えていて、栄一は

生徒の一人であった。深谷市は歴史的にも楽しい場所であるみたいである。

 深谷では、奈良時代の国分寺が開かれたころの窯跡も出土しているので、利根川が運んだ良質の粘土に恵まれていた。近世において深谷瓦の製造が盛んになったのは、江戸時代、吉宗が町屋の建築に瓦の使用を許可したころといわれている。最盛期は、太平洋戦争後東京大復興による瓦の大需要から昭和48年の約30年間で、その後は減少している。そして、深谷のレンガの歴史は、渋沢栄一が明治20年につくった日本煉瓦製造会社の工場にはじまる。ドイツ人技師チーゼを招いて操業を始めます。

深谷は瓦を造った良質な粘土が、煉瓦づくりに使われてたのです。それ故に煉瓦の町になったのです。

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